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昭和54年3月11日 朝の御理解
御理解 第18節「此方の事を神神と言うが此方ばかりではない此所に参っておる人々が皆神の氏子じゃ生神とはここに神が生まれると言う事で此方がおかげの受け初めである皆もその通りにおかげが受けられるぞ」
御理解17節に「神の綱が切れたと言うが神からは切らぬ。氏子から切るな」とあります。これは、おかげが受けられないから信心を止める、と言うような事ではなくて、私共は、いつもこの神様がおかげを下さろうとしておる。それに、すがっておる、ね。そのすがっておるのを中途半端にして、ようすがりぬかんで、おかげを受けられないでおる、ということ。ま、言うなら、おぼれているものが舟を出されて、そしてそれに救い上げられる、という。ま、舟べりに手をかけておる、というまでで、その舟に手をかけておる、そのもう、一息のところが、おかげの頂けない元になっておるんじゃないかと思うんです。
私がまだ福岡での修行中の時分に、福岡のご信者の中に真名子さんという大変熱心な、ま、篤信のご婦人がおられました。ある時に丁度、他の教会の御大祭に、前日御神殿のお掃除をあちらの親先生から言われまして、も、めったに内殿の方には、ま、私共では入られません。ま、特別な方でなきゃ入られない。それを私に言われましたから、も、感激していっぱいで、その、そちらをお掃除をさせて頂きましたら、とにかく広くて、ですからね。福岡の教会は私がこちらの方から雑巾がけしておる、向うの方から、また雑巾をかけて見える婦人があるんです。それで全然知りませんから、ま、こうやってふきながら、時々一緒に、こう、なる時があるんです。そしたらその真名子さんの、ま、おばあちゃん、というよりも、そのご婦人でした。もう、吉木先生が善導寺の教会に御大祭たんびに見えられて、よくその真名子さんのお話しが出ていたんです。篤心な方ですから、も、大変なおかげをうけた方、も、本当に神様を大事にする方でした。また私の事も吉木先生から三井教会に大坪という熱心な信者がおる、という話を聞いておられたらしいんです。ですから、あぁこの方が真名子さんと言う人だなあ。この人が善導寺の大坪さんだな、というふうに大体感じでわかるわけです。
それから、一寸あなたが真名子さんですか。あなたが大坪さんですか、といったようなことでお話しが出て、もう、それからというものは、も、きりがない程しに信心話し、どうでも一つ私の方へお話しに来てください、ということで参りましたが、とにかく私が参りますと、もう、そこいっぱい40名位集まりました。もう、一晩中話し、も、とにかく真名子さんの、言うならお取次ぎされる方達がみんな御神酒さんでおかげを頂く。
病院に入院しておられる患者さんに自分のところのお縁から御神酒を吹かれると、向うに御神酒の臭いがするという程しに、おかげをうけられた方、また、おかげで沢山の人が助かる。ところが、そんなお年寄りのこと、ご婦人のことですからお話しをするものがおらん。それで、ま、私がチョイチョイ参りましたわけですけども、まぁお話しをして皆さんが帰らた。その後は、もう殆んど徹夜のようにしてお話しさせて頂いたんですけども、ある時泊まらせて頂いて、朝御祈念が終わってからでした。
久し振りで御心眼を頂いた、と言われるんです。それが『私、あなたがどうでも日本一の先生にお取立を頂かれるように、その事を繰り返し、繰り返しお願いしよりました。そしたら大きなバケツの中に、ね。カニが二匹入ってガサガサガサ・・音を立てて大きいカニと小さいカニと二匹がもう、グルグル、グルグル、いわゆるガサガサガサ・・その音を立てて、回っておるお知らせであった。
ところがそのカニが小さいカニを背中に乗せてガサガサ這っておったのが縦になって、そしてその爪をバケツの渕にこうかけて、それをもう、それこそ万身の力をこめて、こうやって這い上がって、そして上の方からポテッと下へ落ちた』ところを頂いたと、
私はその時に思いました。これは私と家内のことだろう、とね。いかに、只、ガサガサ廻っておるだけでは自由な世界に出ることは出来ない。ここに一つ立ち上がって、ね。本気でそれこそ万身に力をこめて上にあがらなければならない、私はそう思いました。
一段と信心に勢いが出た、ね。おかげを頂いてまもなく椛目に帰ってくるようになり、帰って参りましたら、どんどん人が助かるようになって、ま、今日があるわけでございますけれども、ね。私はこのガサガサ・ガサガサ・・・その廻っておるだけと言うような人が大変多いと思うんです。
その人その人の信心の、言うなら願いを、と言うか、大小様々でしょうけれども、どういう願いでもそうです。私はいつも感じます事ですけれども、よその教会に御縁を頂いておった方達が合楽におかげを頂きます。
もう永年信心しておるけども、どうしてもおかげの受けられない、といったようなことが、不思議に合楽に御縁を頂いた途端から、おかげが頂き始めれる、という事実があることです。
昨日も、ある教会にお参りになる方が、今は月次祭たびに5・6回位お参りになったでしょうか。
もう、それこそ翌日から、ま、願いが成就していっとる、といったような感じで昨日も一人息子さんがおくれるんだそうですが、どんなにしても、その結婚の運びにならない。ところが昨日お届けをされるのに、おかげを頂いて、こういうような話しがあって、ま、とんとん拍子に話しが進みそうにある。
それで、なおさら御神意を頂いて、これが良いものならば話しを進めたいから、と言うても何か生々として、お礼に昨日、月次祭に参って来ておられました。と言うようにですね。今迄、何十年間ガサガサガサガサ廻るばっかりであったのがです。何か合楽に来て感ずるものがある、ね。言うならば何か有難いものがある。今日私は御神前で『有難いと嬉しいが一つになっておかげ』ということを頂いたんです 有難いが男なら嬉しいが女、ま、そんな感じでした、ね。そこから、こう産みなされてくるおかげ、ね。どんなに、例えば先だってから頂きましたように九九九というお届けがあった。丁度お届けの数が 999名であった、ね。もう一人で千名だから、もう一人といったってですね。やはりもう一人なからなければ千にはならん満願にはならぬ。私共の願いというものは、そんなもんだ。
それが何かヒョッとヒントを頂いて、心が生々として立ち上がる。いや、これは今迄の信心じゃいけんじゃった。こういう信心があったんだときづく、立ち上がる。そこから言うなら満身の力を入れて、そのバケツから這い上がる、というようなおかげが受けられる。
十七節の、ね、まぁ私だんじゃ頂きらんと言うても止めはきらん。これは私は、言うなら止めたとか、止めなかったとか、と言うことではない、と思う。助けを求めるから助け舟が来るけれども、その助け舟に渕にてをかけながらそれに上に乗る力がない、というような事がいつまでたっても救われない。助からない元になっておるのだ、ということでございます。
だから、そこんところにね、本気で立ち上がり、本気で言うならそこに力を、ね。生々とした、それこそ嬉しい有難いという心で、ね。こういう教会がある、ということを知らなかった。こういう教えは初めてだった、と言うような教えに触れる時にそういう働きがおこってくるんだな。よその教会の方達がお参りをして来ておかげを頂く、ということは、こういうことなんだな、と、ま、思いますか。ですね。十八節は私は金光教の信者、信奉者がみんな究極のところ、ここをめざして頂く信心が、お道の信者だということです。皆もこの通りのおかげが頂かれる。総生神をめざす、ということなんです、ね。 ですから総生神をめざす、という程しの信心ですからね。
昨日梶原先生がお話しをいたしておりましたように、大きい願いをもっておる程、ね。その願いが成就することのためには、いよいよもって様々な問題、難儀と思うておった。難儀も問題もです。問題にせず難儀とせず、これがその大きな願いが、成就することのための修行である。生神をめざすためには、ここを有難く頂かせて頂かねばならんのだ、と言う頂き方が出来るようになる、ね。そこから私は生々とした修行、言うならば立ち上がらせて頂ける信心、まずは私共が生神をめざすという。この十八節に教えておられる、ね。信心を焦点にしてめざしとしてのおかげを頂かしてもらわなければならない。一つの願いを立てたならばです、ね。それで、ま、諦める。とにかくおかげをお願いします、というのですから神様は助け舟を出して下さっても、その舟に手を掛けておってもね、そこを言うなら渾身の力をこめて上にあがる。言うなら働きをです、ね。 私共の心の上におこさなければ、本当なおかげにはならない。言うならば、ま、いつも言われる貫くということ、ね。やり抜くということ。
これはとても私共では、おかげ頂かれんから、ね。それこそ神の綱が切れた、といったような、も、信心を止める、と言ったような意味の事でしょうけども、私は今日はここんところをね。信心を止めるというようなものじゃなくて、おかげを頂くというその心を止めてしまうような信心がです、ね。バケツの中をグルグル廻っておるようなものじゃなかろうか、とこう思います。ね。ここに一つ立ち上がらなければいけない。そして言うならば外へ出らせて頂く。言うならば手立を講じなければいけない。
それには私共の信心の焦点というものがです、ね。いよいよ生神をめざす、と言う程しの信心。これは、それ程しの信心、と言うよりも十八節は金光教の信奉者の皆がです。皆も、ここまで、ね。この方だけではない。皆もその通りのおかげが受けられる、とおじゃるのですから、そのおかげを頂く頂かんば別として目指して頂く、ということがお道の信心だ、と言うことでございます、ね。
そこには途中言うならば、へこたれる事もなからなければ、ね。挫折する、という事もない。いや、むしろこれが生神への手立だ。これが大きな願いを立てておるための成就するためには、この位の修行が、もう当然の事として生々と、それこそ嬉しう、有難う、そこんところを乗り切っていけれるという事だ、と思います。
私が数十年前に真名子さんが、お知らせを頂かれて私に伝えて下さった、ね。そのことをです。私は今日はしきりに思い出させて頂いておったら十八節でした、ね。そこんところをです。言うなら、お互いがガサガサ・ガサガサ・・廻っておるだけの信心から、一つ立ち上がって向こうへ、おりさせてもらえれる、信心を頂かせてもらわんならん、と思うです。
「どうぞ」